エッセイ

昔のゲームは、作り手が楽しんでいるのが伝わってきた

Shunsuke

子どものころに遊んだゲームを思い出すとき、ストーリーや攻略法よりも先に、妙なところを覚えていることがあります。

私の場合は、『ロックマンエグゼ』シリーズの「ユーモアセンス」です。

これは、ロックマンに組み込むと、会話がギャグだらけになるという攻略には何の役にも立たないアイテムです。

それなのに、そのためだけに、たくさんのギャグが用意されています。
さらに、そのシステムが導入された3以降、すべてのナンバリングで用意されています。

「これを作っているとき、きっと楽しかっただろうな」

子どもながらに、画面の向こうにいる大人たちが楽しんでいるのを感じていました。

子どもにとって、ゲームを1本買ってもらうのはとても大変なことです。

誕生日やクリスマス、テストを頑張ったご褒美。
やっと手に入れた1本を、何周もして、隅から隅まで遊び尽くす。

作っていた人たちも、きっとそれを知っていたのだと思います。

「1本のゲームを、最後まで楽しんでもらいたい」

攻略には何の役にも立たないギャグの数々は、そんな思いから生まれたのかもしれません。

もっと有名な話だと、初代ポケモンのミュウの話も好きです。

初代ポケモンのミュウは、開発の最後に空いたわずかな容量へ、開発者がこっそり入れたものだったと言われています。

仕様書には書かれていなかったはずの、予定にない遊び心。
それが結果として「幻のポケモン」になり、子どもたちを何年も夢中にさせる伝説になりました。

昔のゲームづくりは、容量との戦いだったとよく耳にします。

入れたいものをすべては入れられず、何を削るかを考え続けるような世界。
そこでは、わずかな空き容量さえ貴重だったはずです。

それでも、その貴重な隙間に入れられたのは、攻略の役に立つ何かではなく、遊び心でした。

限りある容量のなかで、いかに自分たちを表現するか。
そういうところにこそ、開発者の思いが詰まっていた気がします。

そして、その思いは、画面越しに遊ぶ子どもたちにもちゃんと届いていた。
だからこそ、当時子どもだった私たちの記憶に、もっとも鮮明に残っているのだと思います。

隠し要素やおまけは、今のゲームにもたくさんあります。
でも、本筋とはまったく関係のないものは少ないように感じます。

そんなポケモンを生んだゲームフリークについて書かれた本に、こんな一節があります。

「子供はこういうもので喜ぶのだ」といった打算ではなく、「自分が子供の頃はこういうことに喜びを感じていた」という”記憶”。「自分が楽しいと思えるものを作るのだ」という”確信”。

「子どもが喜ぶもの」を分析して作るのではなく、「自分が楽しいと思えるもの」を作る。

その違いは、画面の中のデータだけを見ても、きっとわかりません。
でも、遊んでいる側には、なぜか伝わってしまうんですよね。

考えてみると、これはゲームに限った話ではない気がします。

楽しんで作られた料理と、義務で作られた料理。
楽しんで書かれた文章と、義務で書かれた文章。

受け取る側は、説明されなくても、どこかでその違いを感じ取っているものです。

不思議なのは、「楽しさ」そのものは、商品のどこにも書かれていないことです。

成分表にも、仕様書にも、目次にも載っていない。
それなのに、ひっそりと混ざって届いてしまう。

だとすると、何かを作るとき、作り手にできるいちばんの品質管理は、自分が楽しむことなのかもしれません。

あなたが日々作っているものにも、同じことが言えると思います。

資料でも、料理でも、メールの一文でも。
全部を楽しむのは難しくても、どこかひとつ、自分が楽しめる部分を仕込んでおく。

誰もすぐには気づいてくれないかもしれません。
それでも、ミュウのように、いつか誰かが見つけてくれる日がくるはずです。

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Shunsuke
Shunsuke
エンジニア / 心理カウンセラー / 起業家
ひとりの未熟な人間として、現時点での思考を静かに書き残しています。
正しさよりも、気づきや安心を大切にしたい。
誰かの心が少しでもやわらぐ言葉を残せたらと思っています。

尊敬する人物はチャーリー・マンガーとウォーレン・バフェット。
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